飯玉縁起と彫刻

飯玉縁起

拝殿向背 飯玉縁起(いいだまえんぎ)彫刻

  • 光仁天皇の御代(770〜780)、群馬郡の地頭・群馬太夫満行には8人の子がいた。末子の八郎満胤は文武の道に優れ、帝から目代の職まで賜るようになる。これを妬んだ兄たちは八郎を夜討ちにして鳥啄池(とりばみのいけ)の岩屋に押し込めてしまう。
    八郎は憎しみの余りに大蛇と化し国中にまで生け贄を求めるようになる。やがて小幡権守(おばたごんのかみ)宗岡の家が贄番に当たる年となり、父と16才の娘海津姫は悲運に嘆き悲しむのであった。
  • 都から通りかかった奥州への勅使、宮内判官(くないほうがん)宗光はこれを聞き、海津姫とともに岩屋の奥へ入っていく。真っ赤な舌をのばし牙を立てて怒り狂う八郎大蛇と、一心に琴を弾き法の功徳を説く勅使宗光。
    すると八郎は琴の音に随喜の涙を流し、これまでの恨みを悔い改め、龍王に姿を変えた・・・・御本社拝殿向背(こうはい)に見上げる彫刻は「飯玉縁起」のこの場面を見事に描き出している。そして天空に舞い上がり「吾が名は飯玉である。今よりのちは神となって国中の民を守護せん。」と宣言し、群馬と緑埜(みどの)両郡境の烏川のあたりに飛び去り姿を消した。
  • これを見た倉賀野の人高木左衛門定国は勅使に上奏し、この地に「飯玉大明神」を建立したという。巻物の末尾には「大同二年丁亥九月十九日 豊原朝臣高木左衛門定国」とある。

    『飯玉縁起』一巻(部分)

  • この一話は神仏習合の色合いを濃く残したもので、14世紀半ば頃に編纂された縁起物語集『神道集』との関連性も指摘される。『飯玉縁起』一巻は、文書調査によれば、江戸前期の寛文12年(1672)には既に存在していたとされる伝来の社宝である。