11月3日 倉賀野城十六騎武者行列

  • 秋晴れの文化の日、恒例の「倉賀野城十六騎武者行列」の出陣式が境内で行われました。鎧武者の行進を、倉賀野小児童のマーチングバンドが華麗に先導していきました。

   境内で出陣式     倉賀野小マーチングバンド

  • 「倉賀野城十六騎」について。
    倉賀野氏の始祖は倉賀野三郎高俊といい、武蔵七党の一つ児玉党の余流とされる。高俊は建長5年(1253)に本社の御社殿を造営した伝えられる。「十六騎」については不明な部分も多々あるが、倉賀野城の城主・倉賀野氏に代々仕えた地付きの重臣たちのことで、須賀佐渡守、勅使河原備後守、福田石見守等の面々をいう(明治14年土屋老平『倉賀野誌』)。のちに平井から来た金井小源太が加わったともいう。
  • 天文15年(1546)、上杉憲政と北条氏康がまみえた武蔵国川越合戦で上杉方が大敗、これに従った城主の倉賀野三河守行政は討死した。「時に息男辰若丸幼少なれば、三河守殿軍将十六騎にて城を守る」。
  • 倉賀野城は、武田勢の再三の侵攻をしのぐも、永禄7年(1564)ついに陥落。武田の支配下、城を統率したのが金井小源太で、数々の戦功を立てて認められ金井淡路守となる。
  • 倉賀野神社は古くは飯玉大明神と称した。倉賀野城の戌亥(いぬい=北西)の方角の守護として鎮座し、倉賀野氏代々の崇敬を集めた。また金井淡路守による社殿修復の事跡も伝わる。徳川の世となり倉賀野城は廃城となるが、享保19年(1734)に淡路守の子孫が神社に奉納した扁額の裏面には「武運長久と子孫悠久の守護をいただきますように」という願いが刻まれている。願い主である自らを「児玉党倉賀野氏流淡路守」の子孫と名乗っていることは注目されよう。