天明神輿

天明神輿

  • 神輿の屋根裏の組材に「天明五乙巳歳九月吉旦」「須賀七代庄兵衛吉抵妻圓」と刻まれている。須賀家は倉賀野宿の脇本陣の家で、七代庄兵衛は宿の年寄・名主役を勤め、天明3年に亡くなっている。その後に隠居した妻、お圓さんが天明5年(1785)に飯玉宮(現在の倉賀野神社)に奉納したものである。
  • 天明3年(1783)7月には上州(群馬)と信州(長野)両国境にある浅間山が大噴火している。つづいて「天明の飢饉」の始まる時代のことであった。
  • また墨書に「天明四歳甲辰十月造之」「細工人大阪北御堂前宮屋九郎兵衛義林代」と書かれている。神輿のつくりも軒四隅の蕨手(わらびて)が屋根野筋(のすじ)からではなく、下の垂木から出ており、関西型神輿の特徴を示しているといわれる。
    また、胴の上部で屋根を支える升組(ますぐみ)の下に、正面が梅、後ろが松、右が牡丹、左が菊、と彫り物が配されている。
  • 長く破損していて、昭和33年(1958)の「御造営七百年祭」以降は外に出ることがなかったが、平成2年の御大典を機に大修理がおこなわれ、神幸祭が復活した。